ウクライナで戦争がはじまり二年経ちました。あの戦争が始まって以来、夜中に目を覚ました時に私はスマホで海外のニュースのホームページを開いて核戦争が始まっていないか、チェックしてしまいます。中東でも戦争がはじまり、世界大戦はもう始まっているのかも知れません。第一次世界大戦直前のギリシャ独立戦争、バルカン戦争の状態にあるのかも知れません。極東の「辺縁」に住む多くの日本の人たちには意味不明な状況でウクライナの戦争は始まりました。圧倒的軍事力のロシアがあっさりとロシア人たちの「故国」、キーフ公国を制圧するのかと思えばそうでもなかったようです。普遍的な原理として、暴力で地域を制圧する、ということを目的にした場合、圧倒的優位な軍事力でも難しい、ということを、同じような計画を立てている軍事国家は学んだことでしょう。核兵器の脅しもある程度は効果がある、ということも世界は学んだことでしょう。何事も「やってみないとわからない」「目の前の現実から学ぶ」ということです。ならば近々、核爆弾が一発、世界のどこかで爆発したらどうなるか、というのも人類は学んでしまうかもしれません。
それにしても同胞とみなされて言葉も似通っていた民族の間で殺し合いをしたら、未来永劫、双方にどれだけ深い憎しみが残るであろうか、ということも世界は知ることになるでしょう、と言いたいのですが、そんなことは世界各地で人類は既にこの5000年の間、何度も何度も経験してきて知り尽くしていることなのかもしれません。ロシアには住民大虐殺の歴史的事件に基づく平和を願う「ノブゴロドの鐘」という概念があります。教会の鐘はドイツ軍からパリが解放されたときにも打ち鳴らされました。
そういえば日本にもお寺の鐘がたくさんあります。議員の納税は自由、という「自由納税党」の金権支配から我々日本社会が解放されたとき、ありとあらゆる鐘が打つならされる、なーんて日は絶対来ないでしょうね。「エライ人には逆らえない」と徹底的に洗脳された国民ですから。当選するのは金持ってる奴、予算を引っ張ってくる奴、庶民の税金は自分のもんだ!と思っている奴らですから。